kainownの絵について思うこと

色んな発見を書き留めておく

絵をあげるのが怖い話

前回「本音を、渾身の絵を否定されるのが嫌なのだ」と書いた。

今日は少しここを補足させて欲しい。

 

昨日書いた通り、僕はほぼ理論だけで絵を描いている。

自分のフォロワーにウケると思った絵を描いて、理論に基づいて絵を構築して、

出来る限り完成度を高めてTwitterに投稿する。

 

自分なりの理論で絵の完成度を高めることはある程度出来るようになったのだが、

ウケると思った絵を機械的に完成させているだけだ。

「ウケると思うコンセプト」に「自分」が入り込む余地は全くない。

絵から自我を排除すればするだけ絵の需要はある。

ヲタクの最大公約数を狙って描くので、大きく外すことはないのだ。

 

それなのに絵をあげる前、正確に言うと完成させる前は毎回怖い。

何が流行っているのかを見極める目を審査されるのが怖い。

自分の画力を査定されることが怖い。

運が向いているか、向いていないのかが分かることが怖い。

自分が本気でその絵と向き合ったのか、その絵に出来ることは他にないのか。

これでGOサインを出す人間だと思われていいのか。

自信のある良いと思う絵であっても、完成したことにする瞬間だけはものすごいストレスを感じる。

白髪も増えたし、寝れなくなる。

 

それでも絵描きは絵を完成させるしかない。

ダラダラずっと同じ絵を描いているのは楽だ。

デジタルで描くのであれば、ピクセル単位で永遠に描いてられる。

やることが決まっているルートを走り続けている間だけは、何も考えなくていい。

誰の評価も気にしなくていい。

 

だけど社会に査定されなければ、自分の価値が分からない。

自我を排除した絵ですら、こんなに辛いのに。

自我で描いた絵を完成させることはどれだけ辛いんだろうか。

 

 

「何を描くか」が問われている時代に「何を描くか」が全く掘り下げられていないことに恐怖を感じている。

だから貴重な時間を削ってブログを書いている。

自分の考えをまとめて、「何を描くか」に対して自分なりの答えを持ちたい。

 

それなのに「何を描くか」を発表するのが怖い。

「本音を言うのが怖い」と言い換えてもいい。

「何を描くか」は自分を構築する核であるべきだと思っている。

なのに核を見せるのが嫌なので「ウケると思うコンセプト」に逃げている。

 

いずれは「何を描くか」が問われる絵を描くから。

まずは見てくれる人を増やさないといけないから。

発表するときに統計がとれるようにフォロワー数がまず欲しいんだよね。

 

これは言い訳だ。

楽をすれば自分が堕落していくのは分かっている。

だから本腰を入れて「何を描くか」を考えないといけない。

 

それは僕にとって、自分の中に何が入っているのかを見つめ直す作業なのだ。

中に入っているものが魅力的でなくてもいい。

それを受け入れて絵にすることに価値があるのだ。